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「社会学入門」期末レポート2011-3

「小学校からのキリスト教教育についての是非」

理学部2年 黒田みなみ

最終推敲日  2011/08/10

 


 

1.       テーマについて

私の学校はキリスト教の小中高一貫校で、小さい頃からキリスト教に触れてきたため、私の頭の中では自分でも気付かないうちに「キリスト教=正しい」という固定概念が出来あがっていた。(学校はキリスト教だったが、わたし自身は信者ではない。)物心ついた頃には、すでにお祈りやミサといったキリスト教特有の儀式が習慣化されていたため、小学校までは「キリスト教」というものに疑問を感じたことはなかった。中学生の頃からキリスト教の博愛主義に反発を感じるようになったが、自分のなかで無意識のうちに出来あがってしまった「キリスト教は正しい」という思い込みのために、「キリスト教は理想論だが批判できない宗教」だと思っていた。だから、高校の倫理の授業でニーチェのキリスト教批判を勉強した時はとても気持ちよかったのを覚えている。

 もともと「宗教」というものに興味があったことに加えて、以前から感じていた「私の受けたキリスト教教育は何だったのだろう?小さい頃からキリスト教に触れてきたことは良かったのか?」という疑問を考えるために、今回のレポートのテーマをキリスト教に決めた。

 このレポートでは、まず文献から読み取れたキリスト教肯定派と否定派それぞれの「人間」の捉え方を比較し、その後でそれに関する自分の意見を述べていこうと思う。

 

2.       キリスト教肯定派

まずは肯定派の意見として、ルターとアウグスティヌスの文献を取り上げてみようと思う。

彼らによると、人間という生き物は自分の自由意思に従って行動すると、必ず悪の方向へ向かって行ってしまう存在なのだそうだ。そのため、人々は神にたよらなければ善の方向に進むことはできない。しかし、多くの人は自分自身の力で自分を救済できると考えるため、なかなか善く生きることができない。神によって救済される人は、徹底的に自己に絶望し、全てを神に預けた人のみである。ここで、人が悪に向かう存在である理由についてであるが、アウグスティヌスによると、それは人間が無から創られた存在であるからである。無から創られたものは、退落する可能性を持っている。そして、退落するということはそれ自体が悪であり、従って、人は悪に向かう存在なのである。一方、神の本性はいつどこにおいてでも、どんな点においても退落することはない。つまり、人に限らず神以外の全ての物は悪の本性を持ち、神だけが悪でないということになる。

これに関して、私としては一つの疑問を感じる。なぜ無から創造されたものは退落する可能性があり、神はその例外なのだろうか。この答えは文献では見つけられなかったので、私なりに考えた解釈を後述しようと思う。

 

3.キリスト教否定派

 次にキリスト教否定派の意見を見てみよう。今回はニーチェの文献を参考にした。

 ニーチェによると、人間というものはまず自分のことを考え、さらに余裕があれば他者のことを考える存在である。まず自分、そして他者という順序が自然であるのに、キリスト教ではその順序を無理に逆にしようとする。つまり、キリスト教は人間の本性を批判しているのである。

 また、彼は、キリスト教は「ルサンチマン(怨恨感情)」から生まれた宗教だと言っている。ルサンチマンとは被支配者や弱者が支配者や強者に対して抱く憎悪や妬みの感情のことだ。すなわち、ニーチェによれば、キリスト教はユダヤ人のルサンチマンによってできた宗教なのである。

 ここで、ユダヤ人の歴史について少し触れてみようと思う。『知の教科書 キリスト教』(講談社選書メチエ 竹下節子著)によると、ユダヤ民族は紀元前2100年頃から1800年頃にかけて形成された民族である。その後、旧約聖書の「出エジプト記」に見られるようにエジプトの支配があり、それが紀元前1500年くらいまで続く。その後、ユダヤ人はバビロニア王国により数回にわたって捕えられ(バビロン捕囚)、バビロニア王国が滅びた後、紀元6世紀の後半くらいから少しずつ帰還が許されるようになった。ここまでが旧約聖書に書かれている歴史である。バビロン捕囚から帰還した後、ユダヤ人はエルサレムに神殿を建てるが、ギリシャのアレクサンドロス大王によって国を滅ぼされ、ギリシャ化する。その後もエジプト、シリア、メソポタミアなどによって征服され、キリスト教が出来た頃はローマ帝国の植民地となっていた。

 このように見てくると、確かにユダヤ民族は歴史の中で常に被支配者、弱者である。2で見たように、救済の条件が「自己に絶望し、全てを神に預けること」であることからも、キリスト教がルサンチマンから生まれた宗教であるという考え方は間違っていなさそうである。

 

4.       なぜ神だけは退落しないのか?

ここまで、キリスト教肯定派と否定派の考え方を述べてきたが、ここからは私の考えを述べていこうと思う。

まず、2で感じた「なぜ神は退落しないのか」という疑問について考えていく。

旧約聖書の「創世記」を読むと、世界の始まりは次のように書かれている。世界がある前に、まず初めに神がいて、神が天地を創り、光と闇を創り、空、陸、海を分け、植物を創り、太陽と月を創り、動物を創って人を創った。一言で言うと、神によって無から有が創られた。つまり、この現実世界はすべて神によって無から生みだされた有、ということなのだろう。だとすれば、神は何なのだろうか。無なのか、有なのか。前に述べたように、神は退落する可能性はないのだから、有ではなさそうである。そこまで考えた時、私はこの考え方に似た考えをした思想家を思い出した。プラトンのイデア論である。プラトンは、無から有が生まれたと考えたわけではないが、現実世界はイデアの不完全な模像であり、イデアこそ永久不変の真であると考えた。キリスト教も、これに似た思想と解釈することが可能なのではないだろうか。すなわち、現実世界は神(=イデア=真)によって創られたものであり、不完全な模像であるため、本質的に退落する可能性を持っている。しかし神は真であるから、いつどこでも、どんな点においてでも退落しえない。そう考えると、人の本性が悪であるという事も納得できる。キリスト教では自分自身も不完全な模像と考えている、と解釈すればうまく説明出来そうである。

 

5.       キリスト教とニーチェの共通点

キリスト教において、人間の本性が悪であることは論理的には納得できた。では、現実問題としてはどうなのだろう。人間の本性は悪なのだろうか。

私の個人的な意見としては、人間の本性はやはり悪だと思う。ニーチェの言ったとおり、人間という生き物はまず自分の事を考え、さらに余裕があれば他人のことを考える。あまり良い例ではないと思うが、地震や津波など、自分の命が危ない時は、人は誰でもまず自分の身の安全を図ろうとするのではないだろうか。自分か、相手かのどちらかしか助からないような状況の時、少なくとも私だったら自分を助けたいと思ってしまう。結局は相手を思いやる気持ちより、我が身可愛さが勝ってしまうのである。しかし、これもまたニーチェが言ったとおりなのであるが、そう思ってしまう人間の感情は自然なことなのだろう。人間は他者より我が身のほうが可愛く思ってしまう。それは、自然な事であって決して悪いことではないと思うのだが、自然な事であるからこそ、人間は哀しい生き物だと感じる。

新約聖書のなかに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音第1513節)という一文がある。この一文だけから判断するのは危険ではあるが、パウロの贖罪思想にもあるように、キリスト教では「誰かの為に自分が犠牲になること」を究極の愛とみなしていると考えてよいと思う。そして、そのように考えるのは「人間はまず自分の事を考えてしまう」ということを分かっているからなのではないだろうか。つまり、キリスト教は「人間はまず自分のことを考えてしまう。しかし、だからこそ、キリストのように自分を犠牲にしても相手を思いやれるような人になろう」という思想なのではないだろうか。

ここで、キリスト教と、それを批判したニーチェの思想に、1つの共通点が見えてくる。どちらも、「人間はまず自分のことを考え、次に他者のことを考える」という認識は同じなのだ。両者の違いは、それを悪ととらえるか、自然性ととらえるかの違いなのではないだろうか。

 

6.       宗教とは何なのか?

3で見たように、キリスト教を作ったユダヤ民族は、歴史的に見て常に弱者である。そして、弱者であるからこそ、「ユダヤ民族が弱者でなく、他の民族と同じ立場だったらいいのに」という理想の世界があったはずである。その、「こんな世界だったらいいのに」という理想を実現させるための条件が、キリスト教の教えとして表れているのではないだろうか。人にしてもたいたいと思うことを他人に施せ、友のために自分の命を捨てろ、自分の敵を愛せ……これら全てのことを実践しようとしたら、世の中平和になるに違いない。しかし、人は本質的にこれらの行動をためらう、あるいは逆の行動をとりたくなるような心情になってしまう。だから自分の意志で行動しようとすると理想の世の中は作れない。すなわち、人間の本質は悪であり、神の教えに従うべきなのである。そう考えると、キリスト教とは、共通の理想を持つ人々にとって、その理想を実現させるための自戒、あるいは励ましのようなものととらえて良さそうである。

おそらく、以上のようなことはキリスト教だけに言えることではない。すなわち、宗教とは、ある同じ共通の理想を持つ人々が、その理想を実現させるための条件、自戒、励ましとして定義できるのだと思う。

 

7.       私の受けたキリスト教教育は何だったのか?

さて、キリスト教が何なのかが分かったところで、冒頭に述べた「私の受けたキリスト教教育は何だったのか」という疑問について考えてみようと思う。

先に述べたとおり、宗教とは、ある共通の理想をもつ集団のなかでは意味を持つものである。では、その理想を持たない人にとっての宗教とは何なのか。これは、例えば自分にとってイスラム教が何なのかを考えると(私はイスラム教徒ではない。)答えは簡単に出てくる。つまり、「大して関係ない」、ほぼ無関係である。

ならば、私にとってのキリスト教も、私とイスラム教が無関係であるように、無関係なのだろうか。1で述べたとおり、私は幼い頃からずっとキリスト教に触れてきたため、全くの無関係というわけではないだろう。しかし、私個人の考え方はキリスト教の教えとは違う。キリスト教の目指す理想を自分も目指そうとは思わないし、「汝の敵を愛す」ではなく、「汝の敵には近付かない」という主義だ。だから、12年間キリスト教教育を受けてきながらこんな結論を出すのもどうかと思うが、私の受けてきたキリスト教教育は、私にとって特に深い意味のあるものではなかったのではないかと思う。私には私の考え方があるし、キリスト教にも独自の考え方がある。人それぞれ考え方の違いがあるのと同じなのだろう。

冒頭にも述べたように、私はキリスト教が嫌いだった。というより、宗教が嫌いだった。どれも理想論ばかり主張していて、もっと現実を見るべきだ、と思っていた。確かに、宗教は理想論である。その考えは今も変わっていない。しかし、宗教は現実を無視しているわけではない。現実を克服しようとしているのだ。

私が小さい頃からキリスト教に触れてきたことは、良い悪いはともかく、必要だったことではないと思う。中学生の頃からキリスト教に対して過剰に嫌悪感を抱いていたということから考えると、どちらかというと悪い影響を受けていたのかもしれない。今までは、「自分は教育によってキリスト教に洗脳された」と思いこんできていた。だからキリスト教が嫌いだったし、学校の教育理念も好きではなかった。しかし、それは単なる思い込みであり、実際には違うということが漸く分かったように思う。いま、考察を終えて、キリスト教に対する嫌悪感が消えたことが、その何よりの証拠である。

                                (4903字)

 

8.       参考文献

・『世界の思想家5 ルター』 徳義義和 平凡社

・『世界の思想家3 アウグスティヌス』 泉治典 平凡社

・『ニーチェ入門』 竹田青嗣 ちくま新書

・『知の教科書 ニーチェ』 清水真木 講談社選書メチエ

・『知の教科書 キリスト教』 竹下節子 講談社選書メチエ

・『ニーチェはこう考えた』 石川輝吉 ちくまプリマー新書

・『ニーチェと哲学』 江川隆男 河出書房新社

・『ニーチェ』 樋口克己 ナツメ社

・『ニーチェとその影』 三島憲一 講談社

・『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎、大沢真幸 講談社現代新書

・『はじまりのキリスト教』 斎藤研 岩波書店

・『初期キリスト教〜宗教改革』 松本宣郎 山川出版社

・『キリスト教の原点』 百瀬文晃 教友社

・『キリスト教の歴史:現代をよりよく理解するために』 浜名優美、藤本拓也、渡辺優 藤原書店

・『カント哲学とキリスト教』 氷見潔 近代文芸社

・『カルヴァン:歴史を生きた改革者』 出村彰 新教出版社

・『ルターを学ぶ人のために』 金子春勇、江口再起 世界思想社

・『アウグスティヌスの神学』 宮谷宣史 教文館

・『三位一体/アウグスティヌス』 泉治典 教文館

・『アウグスティヌス:「私」のはじまり』 富松保文 日本放送出版協会